詩を編む(2)

   永瀬清子の詩を中心に書き残したものを紹介してゆきます。

   ●昔の詩

 ● 彼の段階

 ●心にとまったもの aユルリ島の馬    

 ●好き嫌い(一)   

  


昔の詩

その頃は まだ時がうんとあると思っていたので

自分が必死でつくった うすっぺらな雜誌も

それほど大事にはしなかった。

若年は それほど時間の意味を思わず

時の鬼の皮肉さを知らず

いつのまにか どこかへ散逸してしまった。

どこかで うっかり めぐりあわせた時

自分自身の みずみずしさにあきれ

その頃の未完にほれぼれするのだ。


彼の段階

彼は人を段階として考え、彼の考えでの「エライヒト」にだけ尽くし、

彼の考えでの「ツマラヌヤツ」には指一本尽くそうとしない。

「エライヒト」からみたら自分がツマラヌ事には気づかない。

しかし彼の実践倫理から云えば

エライヒトは決してツマラヌ自分に尽くしてくれない筈だから、

ツマラヌ人によくした方が理屈に合うのではないか?


心にとまったもの

      a ユルリ島の馬

「馬は一言も云わぬ。

人間も馬もかわいそうだ

売ったあとは何日も みな物を云わぬ」

テレビの一齣であった。

猛々しい野馬であったユルリ島の馬は、捕えられ、なつき、

一家族として荒れ地を耕し年月を過ぎた。

そしてやがて売られれば一塊の肉となってしまう。

誰も売りたくはないが、売らねば食えぬ。

人間生活の苦に巻きこまれ、馬は一家と遠くひきさかれ車に乗っていってしまう。

野馬として あんなに抗った時の美しさが、今も眼に焼きついているのにーーー。

そして多分 私も一人の その馬にちがいないのだ。


好き嫌い(一)

私が働いて疲れて帰ってくると夫はすぐに

「おいお茶を入れてくれ」とか「風呂に火をつけてくれ」とか云う。

ブラウスもぬがぬ間にーーー。

それはこちらの云いたい事なのに、とその不合理に いつも憤慨していた。

そして一方では、怒る自分をケチだと卑しみ、解決に悩んだ。

友人の八重子に

「あなたならどうする?」とたずねると

「その男が好きなら くたびれていても すぐお茶を入れてやるし、嫌いなら してやらない」

と何のためらう事もなく云う。

「ああそうか」と私は天の声をきいたように思った。

でも私自身は げんに疲れていて、いやいややる事に変わりなく、そのようにできなかった。

つまりそれがいつも一人角力だったのだ。

お茶をいれた時、相手が

「おいしかった。ご馳走さま」と云ってくれさえしたら、、、、すべてよかった。

それが なぜうまくいかないのか。

私が たのしそうでなく、疲れを顔にだし、義務的にやる、その事が原因なのか。

私は それでいつも苦しんでいた。

「だまして下さい、言葉やさしく」それは私の本当の声であり、自分のその詩をよむと涙が流れた。

それ位 悩むなら嫌いなのだろうと云われれば、嫌いと云う理由が又わからない。

女は いつも損だ、損だ、損だ。