詩を編む(2)

   永瀬清子の詩を中心に書き残したものを紹介してゆきます。

 ● いつもいつも野の中で

   ● 夏讃歌

 ●   八朔

 ● 塩.砂糖

 ● 朝の通りを  

 ●  幼きものの世界 a      

 ●  昔の詩      

 ●  彼の段階

 ●   心にとまったもの aユルリ島の馬    

 ●  好き嫌い(一)   

  


いつもいつも野の中で  (黄薔薇131号より)

いつもいつも急いでいたので

ほかの事は何もできなかった

何にそんなに私はいそいでいたのか

考えれば

自分の流れを汲みとる事にばかりいそいでいたのだ

ーーその流れはいつもいつも止まらないのにーー

その上、捨てる事ばかり多かったのにーー

 

たまに野の花を摘んでは挿すほかに

我が住居をきれいに飾ることも

自分を美しく装うこともできないでいた。

 

今はもう時間は手持ち少なく

おお 何がそんなに忙しかった?

もうぢき尽きてしまう私の命

省みれば私と同じかすかな者に

はげましの言葉 贈りたいと

それでどうやら自分をみつめていたのだ

 

今、女の人はみんな元気で

貧しい私の言葉なんていらない?

もっとおいしい物たべたくて

私の作ったものなんか いらない?

いいえ私の求めていたのは

もっともっとすてきなものよ。

私の作った曲がったお芋や、虫くいの豆の中にかくれているのよ。

そうよ、一番いいものはかくれているの。

 

探しあぐねて立っている時

私の足は素足

私の髪は芦の葉のようにざわざわ

私はひとりでに おいしい実のなる林檎の木ではなかったもの。

でも私は小さい紅い玉だけは ささげ持っているのよ

野の風の中で みがかれている時

私は自分の野茨のように珊瑚のように

とても大事にしているのよーー。

 


夏讃歌

しづかに天より降ってくる

夏のさやけさ うつくしさ

乳に満ちたる樹々の梢に

雪とかがやく空気のさざなみ

季節は いまや きわまりて

風に消えゆく子等の声

 

素足音なく駆けすぎる

芝生は炎のエメラルド

まぶしき花を訪れる

翅に小さい虹の環

ああ この夏のきよき光

過ぎゆくものとは おもはれず

 

野には そよげる野の花の

はてなき波の うちかへす

千々に くだけて又燃ゆる

ああ この夏のきよき光

過ぎゆくものとは思はれず


八朔

誰が新鮮で汁のほとばしる一個の八朔の味をそのまま表現できる?

のべれる?友人が産地から送ってくれた鮮らしい八朔。

味の種類や意味を伝えにくいにもかかわらず、それはすべて自分の身にとけこむような感じ。

つまり

「自分がそれを受けとって相手と同じ新しいものにならずにいられない感覚」とでも云おうか。

それが汁のほとばしる八朔、又は詩の、根本の意味であろう。


  砂糖

私が死んだあと、人々が私の作品を記憶するとは とても思えないが

「あの人は お汁粉をつくると云って お塩とお砂糖をまちがえ、

  金杓子に四五杯もお塩を入れたっけ」と笑い話にするような気がする。

そして、そのときどうして そう考えをしていたのか、

という事はまるきり消えてしまうにちがいない。


朝の通りを

朝の通りを

グラジオラスと夏菊の小さい束を買って小走りに帰っていく娘

お前は何かをつけ加えようとしているね

小さい瓶にその花を活けて、生活をたのしくしようとしているね

平凡なその店の一日を

鮮らしい色で何かつけ加えようとしているね。


幼きものの世界  a 棘

小さいサボテンの鉢を植え替えていると、

目にもとまらぬこまかいトゲが、手のあちらこちらにささった。

シクシクといらだたしい痛み。

タオルを濡らしこすって取ろうとしてもうまくいかない。

「僕がとってあげる」と幼いヒデオがすぐに自信ありげに云ってくれた。

目を寄せ近づけて、皮膚の或る個所から、私には見定めにくい微少なものを

つまみとり、そして「ほらね」という。するとその部分が楽になるのであった。

よくよく見ると房のように束になった金色の極微な針が、

扇のようにひらいてささっているのであった。

新鮮な視力と、やわらかい小さい彼の指のはたらきで、次第に私の皮膚は平静になった。

鼠に助けられている罠の中の獅子の気持ちはこうもあろうか。

こわばり皺よっている私の老いた手の上に、幼い頬をまるくふくらませ、

唇は薔薇の蕾のようにとがらせて近よる時、私は、目に見えぬ傷をなおす、

慰めの天使にさわられて居り、いつか人の世の憂さかなしさも消えていくのであった。


昔の詩

その頃は まだ時がうんとあると思っていたので

自分が必死でつくった うすっぺらな雜誌も

それほど大事にはしなかった。

若年は それほど時間の意味を思わず

時の鬼の皮肉さを知らず

いつのまにか どこかへ散逸してしまった。

どこかで うっかり めぐりあわせた時

自分自身の みずみずしさにあきれ

その頃の未完にほれぼれするのだ。


彼の段階

彼は人を段階として考え、彼の考えでの「エライヒト」にだけ尽くし、

彼の考えでの「ツマラヌヤツ」には指一本尽くそうとしない。

「エライヒト」からみたら自分がツマラヌ事には気づかない。

しかし彼の実践倫理から云えば

エライヒトは決してツマラヌ自分に尽くしてくれない筈だから、

ツマラヌ人によくした方が理屈に合うのではないか?


心にとまったもの

      a ユルリ島の馬

「馬は一言も云わぬ。

人間も馬もかわいそうだ

売ったあとは何日も みな物を云わぬ」

テレビの一齣であった。

猛々しい野馬であったユルリ島の馬は、捕えられ、なつき、

一家族として荒れ地を耕し年月を過ぎた。

そしてやがて売られれば一塊の肉となってしまう。

誰も売りたくはないが、売らねば食えぬ。

人間生活の苦に巻きこまれ、馬は一家と遠くひきさかれ車に乗っていってしまう。

野馬として あんなに抗った時の美しさが、今も眼に焼きついているのにーーー。

そして多分 私も一人の その馬にちがいないのだ。


好き嫌い(一)

私が働いて疲れて帰ってくると夫はすぐに

「おいお茶を入れてくれ」とか「風呂に火をつけてくれ」とか云う。

ブラウスもぬがぬ間にーーー。

それはこちらの云いたい事なのに、とその不合理に いつも憤慨していた。

そして一方では、怒る自分をケチだと卑しみ、解決に悩んだ。

友人の八重子に

「あなたならどうする?」とたずねると

「その男が好きなら くたびれていても すぐお茶を入れてやるし、嫌いなら してやらない」

と何のためらう事もなく云う。

「ああそうか」と私は天の声をきいたように思った。

でも私自身は げんに疲れていて、いやいややる事に変わりなく、そのようにできなかった。

つまりそれがいつも一人角力だったのだ。

お茶をいれた時、相手が

「おいしかった。ご馳走さま」と云ってくれさえしたら、、、、すべてよかった。

それが なぜうまくいかないのか。

私が たのしそうでなく、疲れを顔にだし、義務的にやる、その事が原因なのか。

私は それでいつも苦しんでいた。

「だまして下さい、言葉やさしく」それは私の本当の声であり、自分のその詩をよむと涙が流れた。

それ位 悩むなら嫌いなのだろうと云われれば、嫌いと云う理由が又わからない。

女は いつも損だ、損だ、損だ。