永瀬清子の詩を折りに触れ紹介してゆきます。



「我を忘れて」

 我を忘れて暮らすこと

それができるかできないか。

悲しみに声かすれる事も

好きな本をただ一晩で読む事も

橋のない所をまっすぐに歩いていって

向こう岸へまっすぐ着けるかどうか。

それさえ考えず、読みさしの本が濡れずに着けるかどうか

それがすべてだ。

年とったとか、日が暮れたとか、

そんなこと忘れてくらせるかどうか

それがすべてだ。

 

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「一升枡で」

一升枡で米や麦を量るのに、一升あればよいのではない。

うんと山盛りにしておいて水平にスキッとはらう。

それは詩の方法でもある。

事実に正しくとだけ願っていては米は量れない。

山盛りをみて人はオーバーだとか虚妄だとかそしる。

その盛リ過ぎなしに詩がまちがいなく本心をとどける事は困難である。

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「唇の釘」

唇のわきには小さな釘がしかけてあるので

文楽の女形人形はそこへ袖口をひっかけて

いつもよよとばかりに泣きしづむ

雨にぬれた葉草のようにみよもあらずぺちゃぺちゃに

 

本当の人間であればそうした釘はないから

自分の歯で

泣くまいとこらえて力一杯噛みしめる

 

戦地から帰る善の夫のため新しい布団を

四十数年 新しいままにしまっておいたおばあさんもいた。

布団ばかりじゃなく袖も手拭きも

泣き声出さぬためのかんぬきになるのです。

 

自分の心を出し切れず

無理無体に大事な者をとられて

泣くな女よ

泣くな泣くな女よ

 

乳児の時の歯がほろりと欠け落ちるように

私らの唇のわきの釘は

もうなくなるのがいいのだ

 

世の中にはたくさんの言葉が山とあるのに

どれ一つ自分の心につながないということがあろうか

コンセントを探せ そして理不尽な世の中へはっきり云え

私らは愛する者と生きたいのですと

 

自由が来たように

釘はいらぬようにみせかけて

やはり聞こえてくるおどし文句

まだ涙はふききれぬのに

遠い親と子は探しあっているのに、、、

 

物云うための唇だ

唇は寒くあってはならない

噛みしめるためにありはしない

お主のために泣いたり

家や世間のためにしばられたり

いつもいつも唇のわきの釘が必要だった

花かんざしをふるわしたり

白い襟足をみせて泣いた

泣くに慣れるな日本の女

 

今はもうそれがすんだと云うならば

本当のよろこびは来たのか

理不尽はもう絶対にしないとでも云うのか?

私らの望みはもうすぐ実現するとでも云うのか?

 

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「都わすれ」

                                     さるとりいばら

 

東京へ帰りたくない?と人がきく

田舎で暮らすことなど到底都会では考えられなかったが

いまの私の藍色の山々で自分をびっしりとりかこみ

小さな自分の田を耕して木埋と方言で暮らしている

東京へいったとて何がある

昔の東京は済んでしまった

会いたいものがなければ行く事はない

ぜひ逢いたいものがあれば会えない方がよい

逢えないためにペンがすすめば田舎の灯の方がよい

ああ東京へいく事はやめよう

 

心のかぎり逢いたいものは戦火とともに逝ってしまった

たとえ都会へ行ったとて時の瀑布はのぼれない

まわりに人が多ければ沈殿物(おり)がたちまよい

自分を透かしてみる事は出来ない

 

あぜの草は土の上にぴったり星型に紅葉し

田舎の空気は燈明に結晶して今まっしろにひびが入っている

私の冬の仕事は田んぼの土おこし

それは次の季節のため

自然のめぐりと同じ位必要なのだ

私のあすの仕事は大盛上山の植林

それは何十年さきのため

自然のめぐりと同じ位必要なのだ

古い株や枯れ草を燃(*)きはらい

その焔がおさまって山がすっかり冷えた時

そのあとへみずみずしい苗を植えるのだ

 

山々にかこまれて私はもう都会の誰からも見えなくなり

都会の磁気はいまや私を圏外にして空しくはばたいている

船出した都会へは再び帰らなくていいのだ

私の孤独や悩みはあり得ないものに属し

さるとりいばらや枯れ羊歯の線条と等しく

早春の山のうす煙となって自意識は透明な風の中を渦巻き去るのだ

 

                    (*)「燃」は原稿のまま。

 

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