詩を編む(2)

   永瀬清子の詩を中心に書き残したものを紹介してゆきます。


       「私がいなければ何もない」

 

 

                             「あけがたにくる人よ」  思潮社

          私がいなければ何もない

          この美しい夕ぐれも

          樹々の網目のシルエット

          その ゆるやかな描線の

          音楽的な けむらいも

          かたくな人の心のかげ

          ありとも見えぬ不如意さも

          誰も気づいてくれはしない

          ただ私だけが知るばかり

          眩ひたすらみひらいて

          蜜蜂が巣にかようよう

          此の世のあわれ溜めておく

          人に告げ得ず つたわらぬ

          私の消える日 皆消える

          だのに甲斐なく詩をかいて

          だのに甲斐なく詩をかいて

 

 


         「雨雲ふかく」

                         あけがたにくる人よ  思潮社

 

    雨雲ふかく垂れている方へ

   波間を縫って泳ぎゆくものよ

   おお 見えかくれするその光っている鱗

   自由を求める女たちの心が

   緑色の波をのりこえていくよ

   はてしなく解き放つものを求めて

   稲妻のひまない折れ曲りをあびながら

 

   女はいつも家かげにいて

   心出し切れずに泣いていた

 

   いま波を泳ぎ切ろうとするのは

   自分の眼で真実を見ようと願うため

   圧えているのは何かを知ろうと望むため

   広い世界の方へ

   いま自分の胸の鱗光らせて

   涙わすれて泳ぎすすむよ

   垂れこめた雨雲ふかく一心に泳ぎすすむよ

 

 


  1988年夏

   「夏の服」

                    永瀬清子最新詩集「卑弥呼よ卑弥呼」

                        私は夏の服を一枚つくりたかった

        昔の気に入った ちぢみのゆかたをほどいて

        あれでつくりたかった

        その時間さえあれば私は上手につくれる

        けれど私は今惜んでいる 老いの時間

        夏草の模様のちぢみを空想でだけ着て

        書かねばならぬ詩を書く

        今、書かねば書けぬ私の詩をーー

 

        楓の実に翅があるような

        半分すけているその翅、

        そして私の その青すすき色の夏の服     


「廃墟はまだ冷えていない」

 

                         永瀬清子詩集   現代詩文庫1039   

             廃墟はまだ冷えていない。

     枯れぬドームの放つ濛気に

     再びあげかねるわが面

     河水に映る顔の焦げただれてはいないかと。

 

     (四次元の街ひろしまよ)

     血泥と瓦礫の悪夢を

     今もそのままただよわせーー

     このまぶしくきらめく建築の稜角の

     新しく夏来たると云うよろこびの音階にも

     かの阿鼻の叫びのまじるーー

 

     生きる肉体の粒子を

     いつの瞬間にか溶けると憂い

     蹠にふむのはまぼろしの膓

 

     (六次元の街ひろしまよ)

     消し飛び亡せる原子の距離は

     刻々に哭く恩愛の執着に三乗し四乗する。

     かがやく夏の白昼

     あの日の焰の眉近くせまるひと時を

     いくたびか眼にみせ又瓦壊させーー

     わがほそき生きのこぶしをふるい

     唾はきつけるとも

     かの丘にそば立てるABCCこそ

     屍の礎にそびえる阿修羅城。

 

     (永久に実らぬ想いの街ひろしまよ)

     大建築は光に立ち

     人々は生を美しく

     けれどもまだその河には閉じぬ眼球洗われ

     岸辺にはらんる哭き

     廃墟はいまだ冷えていない。

     かるくはばたいてその苔むしたドームに

     小鳥はささやくとも

     なだめんと河水は七色にめぐるともーー

 

 

                   ー広島訪問ー


「第三芸術」               

                   流れる髪  短章集2   思潮社   

        私が廻りトの田で麦の中耕をしている時、日は傾き、新田山のかげは次第に

   私の方へ迫って来た。心はあせり、嚙みきれぬ骨と戦う犬のように畝の長さを

   もてあつかっている時、通りかかったヤスさんが身軽に私の田へ入って来て、

   私の鍬をとって代りに土を打ってくれた。一打ちで土はこまかく柔かに砂糖の

   ようになり、二しゃくい、それは定規でさしたように美しく搔きあげられた。

    みるみるうちに畝と畝の間は整然とととのえられ、麦の根元には空気をふく

   んだ土の微粒がふうわりと盛られた。

    宮沢賢治の「第三芸術」にも同じ経験が書かれているが、都会の人が読んで

   も多分何の事もないであろう。私はその時の賢治と同じく茫然とたたずんでい

   た自分を思い、ヤスさんのかぶっていた白い手拭、紺の手甲を思い、

 

     わたしはまるで恍惚として

     うごくも云うもできなかった。

     どんな水墨の筆触が、

     どういう彫塑家の鑿のかおりが、

     これに対して勝るであろうと考えた。

                (「春と修羅」第四) 

 

    と全く同じ気持であった。

    人々のやさしさにかばわれて、わが百姓が成り立っていた日々のことを私は

   思う。その時 村に農業について、私より未熟な人はなく、田や作物について、

   私より物知らぬ者はいなかったのだーー。


貧しき我

                         流れる髪  短章集2   思潮社

 

師が森の奥で思ったことを、貧しき我は食堂の窓の

枝垂れた三本のアメリカ楓によって思う。

そして わがペンを そのすくない緑のインキにひたす。

 

 千年も前から人が意匠し描きつづけた牡丹を、

私は ゆきずりの寺の一株の 今年の牡丹によって知る。

              

  牡丹は はじめ棒のかたちでこもに巻かれ、

玄界灘の波音を船底でききながら渡ってきた。

 

  はじめての花が咲いた時、どれほどの驚喜であったか、

私は その感情を思うて、今年の牡丹の炎の色の髪の中へわけ入る。

 

 

 


女傘

                    流れる髪  短章集2 思潮社

               女物の傘は身巾よりほんのすこし広いだけだから、

     雨がひどく降る時には、濡れないではいられない。

     身をせばめて雨の中を通る。

     雨は美しく、雨を工夫した神は天才だ。

     けれど雨ふりの時は女傘ではだめなのだ。

     しかも男のメーカーのつくった女傘では。

     それで夏の暑い日に その傘を利用して日よけにしようとすれば

     雨のための傘を日傘に使ってはおかしい、と忠告される。

     形も、デザインも色もちがうと云われる。

     そうすれば世の中に女傘くらい役にたたないものはないわけだ。

     まるで女の才能と同じに、女の有能と同じに。

 


新年よ                     

                        焔に薪を 短章集3 思潮社

       楓、柳、いちょう

           樹々の葉はすべて一度地に還っても

           ふたたび新しい芽ぐみのしたくをはじめる。

           新年は私共にまた鮮らしい出発の時を告げる

           樹々のように私共も亦何を望み芽とするか

           私の云う事が

           ただしく人に聴かれ受けとられるための

           やさしい耳を

           私は願う、願う、願う。

 

           私の心の底を語る時

           古くさいと思うな

           新らしすぎると思うな

           程を過ぎていると、又危険だと、思うな

           いじわると思うな、ひねくれていると思うな、

          まずそれが私の心の底の声である事をわかってほしい。

           新年はそのようなやわらかい耳をもって来てほしい。

           やさしい耳を

           私は願う、願う、願う。

 


夜あけ

                     永瀬清子詩集 思潮社

 

一日に一度ずつ色彩のなくなることは

ほんとうに いいことだ、

あすのあさ鮮らしく生れ出るのを

こんなに待ちどおしくよろこぶ心を持っている私にはーー

この空間に在りと思われ

まだ姿をあらわさぬ わがひとよ

 

その人が今私に見えないこともいいことだ

地球のまるみだけ ぼんやり見えるつめたい空気の中で

翼のない鳥のかたちの影をおとしながら

ただひとり あの樅の木が

だんだん輝いてくるのを待っているように

新しい朝の光を待ちこがれている私にはーー

 

 


特別の事情

                   焔に薪を 短章集3

 

心を打ちあけるのが詩人の仕事だ。だから「本心は別だ」と云いわけする事はできない。

嘘をついちゃいけない事は誰でも知っている。しかし、「特別の事情があって、ここだけは

見逃される筈だ」と思うのが嘘つきなのだ。

だのになぜか戦争が来た時、偉い詩人まで「本心とは別」のことを云ってしまった。

まるで やっとこ で釘がねじり曲げられるようにーー。

その人たちはトルストイやロマンローランの戦争否定を読んでいたし、

フランス人の無言の抵抗も知っていた。

だのに、なぜ、なぜ?少なくともその無言を見習えなかったのか。

なぜ自分の場合だけ判らなくなるのか。特別の事情でもあると思ってしまうのか。

「自分だけはきっと見逃がされる」という精神は、早く云えば百万弗を別帳面に

かくす男と同じなのだが、戦争が始まれば、みんな*鶏が三度鳴くよりも早くその気になるのか。

  人よりおくれるのがおそろしいのか。

  自分の名が「愛国詩人」として帳面につけ忘られる事がつらいのか。

  食う道の閉ざされるのが困るのか。

おお すべてそれらの「特別な事情」により曲げられるのだ、詩人の本当の仕事を、心を。

  自分だけは特別と思うな

  今の日本だけは特別と思うな

  社会主義国だけは特別と思うな

  自由の名により特別と思うな

  すべて こちらだけは特別と思うな

特別でない事を、当たり前の事を、科学的真理のように平時のいま、よくよく考えておこう。

うろたえたら きっと自分も「特別」に釣られて詩よりも食をとるかも知れぬ。

飢えに堪えられぬかもしれぬ。

                           *鶏:本文は古い書体で書かれています。

 

 


夏のわかれ

                      永瀬清子詩集 1975発行 思潮社 

 

季節、お前は私に なにかだ。

ふかい不分明な関係がある。

今は夏の詩をすべて嫌悪する。

はき気を もよおす。

私はつかれた。

私はさびしい。

ふと目が覚めると夏のエネルギーはもう去った。

私は葉の次第に落ちゆく楓のように自分を感じる。

蝋燭の灯で秋のわびしい詩をかきだす。

まだ何をかくやら見当もつかない。

夏はきのうのことになった。

この時間の移りは堪えがたい。

この夏のわかれは堪えがたい。

秋になって どうしていっていいか判らない。

裂目のある一枚の葉のこころと

私のこころが きっちり重なる。

自然にまかせて堕ちようとする

ああ この傾斜、

人にみえない いたましい擦過の痕。

風に ふきみだされる私。

季節、お前は私に なにかだ。

 


踊りの輪

                      永瀬清子詩集 1975発行 思潮社 

 

美しい娘たちに まじつて

私の娘も踊っている。

人々の中にかくれて

私は彼女をみつめている。

私の結んでやつた罌粟色の帯は               罌粟―けし

まだ和服に慣れない新しい稜があって               稜―かど

手足のふりもひかえ気味に

彼女の連れの娘にまじつて踊っている。

あまり見劣りはしないだろうか。

幸福そうにしているだろうか。

いつも手元にばかり置いて

遠くから見た事はなかつたのだ。

私があれくらいの時に

抱いていた願いや夢を

彼女もやつぱり抱いているだろうか。

私のほかに誰か彼女をみているだろうか。

踊りの輪は だんだん大きくなつて

唄の声は次第に高まる。

遅い月が山をはなれて

空は一めんの こまかいさざなみ雲

さざなみの皺ごとに

銀の発光がはじまる。

やさしく進んでは歩をかえす

青もやの中の大きな花のようにぼやけて

湖水の妖精のような一群の中

もう誰が誰ともよく判らない。

美しい娘たちにまじつて

私の娘も踊っている。

 


   

                      永瀬清子詩集 1975発行 思潮社 

 

 私には多くの牡蠣殻が附着しだしたがなにそれは私の速力を遅ら

せはしない。そこで私はますますヘビーをかけるばかりだ。私は身

の不自由なあまり時々人に甘えすぎるのでいけない。甘えられた人

人の心がおしまいに判つてくる。私は何でも身一つで処置するやう

になるであらう。

 私が暑い汽車に子供をつれて乗ると、子供らは身を曲げて眠って

ゐる。子供らの汗の顔に煤がふりかかる。私はいつもハンケチを用

意してゐるが然しそれはすぐ汚れてしまふ。終夜見守ってゐるうち

に、私自身が誰に見守られずともよいと思ふやうになってくる。夏

は暑ければ暑いほどよい。九月が早く来ては困る。旅行が終つたや

うに九月に私はがつかりするのだ。物事を回想するばかりの気持は

実にいやだ。いまに私は三十にもなり、又五十までも生きるかも知

れない。その時もそんな気持ちはまつぴらだ。

 子供は腕を傷つけて三角巾を方から吊つてゐる。食事のたびに小

さい箸で口へはこんでやらねばならぬ。この角度からみると睫毛が

ながくみえるから、 いつもの きかぬ気が失せて しほらしく思はれ

る。家の中はくらいが外はカッと陽がしみいりガラスのやうに反射

してゐる。いまはくるしく気負つていることも、いつか懐しげに思

ひ出すかしら。 

 今日は又すばらしく大風が吹いて、きらびやかな外景がなほ激し

い色をしてゐた。洗つたばかりなのに、たくさんの髪の毛がぬけて 

それがやはらかにふわふわと櫛の歯いつぱいになびいてゐた。身一

つについたものを何でも後方の鮫に投げあたへながらすすんでゆく

やうな心持ちがする。

 

 

 


「詩の人相」                     

                                (続)永瀬清子詩集 第七章 糸針抄

 

 

         詩の人相は いつはらない。

       いくら丁寧に仕立てても

       最後のボタンのつけ方が ぞんざいだったら

       それはもう悪い仕立である。

 

 


「行列毛虫は」            短章集3 「焰に薪を」思潮社

 

 

     行列毛虫は、ファーブルの見ている時、

     植木鉢のふちを七十時間もめぐり歩き、

     決して その列を はみだす事はできなかった。

 

     いかなる昆虫も自分の習性を批判したり、

     まして それを修正することはできない。

             

     人間は他の昆虫を嗤う事のできる唯一の昆虫であり、

     又その条件を変えたり善用する事も可能である。

 

     しかし どうしても最後に残る その自分自身の行列は、食生活は、

     帰巣は、常に修正しにくい運命として あわれに残る。

 

                                          ★ 嗤う ー わらう

             

 


「手」について                         短章集3 焰に薪を 思潮社  

    

 

 エンドウに「手」が要るように、毎年5月、山から山ツツジの枝を、

 一メートルほどの丈に鎌で刈りとって来て、エンドウの「手」にするようにーー。

 私には「手」が要る。

 そのまま立てば曲がったり くずおれたりする。

 私には私を支えてくれる者が いつも要る。

 ツツジの枝はエンドウの「手」になっても、やはり しばらく紅い花を さかしていたので、

 どこの畑もしばらくは花園のようになった。 

 それを力に まつわりついて、エンドウはやがて莢をつけた。

 私の中には山ツツジがまだ夕焼けのように紅い。

 多分その紅さは その時だけのもので、すぐ去ってしまうのに、

 私の心は いつまでも それで保っているように思っているのだ。

 

                                *「手」.....支柱

                                 

 


早春        永瀬清子詩集  1975年 思潮社

               あけ方に ふと目がさめると

     空気が なんとなく にぎやかだ。

     春が来ている。

     地虫や草の芽のよろこびが

     気温の中に こもっている。

     私の心も しずかに もどけて

     生まれてから過ごした たくさんの春の

     やさしい とりどりの思い出が よみがえって来る。

     早く死んだ昔の人が

     世にくたびれた私に いたわりの声をかけてくれる。

     しずかに あけてゆく空色の中に

     オレンジジュースがそそがれる。

     その時 自分に対しても きびしすぎたことが

     やっと私にも わかってくる。

     ああ かの人にばかりでなくーーー。

     すっかり朝があけると

     古い径に欅のこまかい枝の影が

     まるで焰のように あおく きらめく。

 


三月         永瀬清子詩集 1975年 思潮社

光のなだれ天にあり

  地には私のまだ凍り

  小さく うなだれて歩み去る

夕ぐれ はてて樹の影の

シルエットさえ みずみずしく

ああ私も樹木であったなら

今や花を咲かせる歌を

己のうちに醸す時。

よき眠りをねむりし故に

栗鼠も熊も みぶるいして

笹の金色に目覚める時。

ああ私も すなおな けものであったなら。

 


窓から外をみている女は    (短章集  【蝶のめいてい】より)

窓から外をみている女は、その窓をぬけ出なくてはならない。

日のあたる方へと、自由の方へと。

そして又 その部屋へ かえらなければならない。

なぜなら女は波だから、潮だから。

人間の作っている窓は そのたびに消えなければならない。

 


唯一の手紙   (春になればうぐいすと同じに)

一匹の

さびしい さびしい恐竜がいたのよ昔

山川はその時 はてもなく広くて

声をあげて呼んでも 友人にはなかなか届かず

彼はひとりで流れのほとりをさまよっていた

するとつい足をすべらして

その足は泥の中にめりこんだのよ

 

風はしんしんと蒼く吹き やがて月も照り

いつの間にか恐竜の行方は

丈高い藪の中に消えてしまったが

残ったのは その足跡

夢じゃなく つくりごとでもなく

その足跡は語っている いろいろの事を

彼が雌か雄かも 目方も彼の歩き方も食べものも

肉食か草食か ひもじかったのかも

彼が私のように淋しかったかも

字も知らず ペンもなく

でも残してくれた その足跡

それはいま詩を書いている私の仕事と

何も ちがわぬ唯一の手紙

この世で死ぬまでに書いておきたい

唯一の手紙なのよ

私と同じに 私と同じにーー

 


いつもいつも野の中で  (黄薔薇131号より)

いつもいつも急いでいたので

ほかの事は何もできなかった

何にそんなに私はいそいでいたのか

考えれば

自分の流れを汲みとる事にばかりいそいでいたのだ

ーーその流れはいつもいつも止まらないのにーー

その上、捨てる事ばかり多かったのにーー

 

たまに野の花を摘んでは挿すほかに

我が住居をきれいに飾ることも

自分を美しく装うこともできないでいた。

 

今はもう時間は手持ち少なく

おお 何がそんなに忙しかった?

もうぢき尽きてしまう私の命

省みれば私と同じかすかな者に

はげましの言葉 贈りたいと

それでどうやら自分をみつめていたのだ

 

今、女の人はみんな元気で

貧しい私の言葉なんていらない?

もっとおいしい物たべたくて

私の作ったものなんか いらない?

いいえ私の求めていたのは

もっともっとすてきなものよ。

私の作った曲がったお芋や、虫くいの豆の中にかくれているのよ。

そうよ、一番いいものはかくれているの。

 

探しあぐねて立っている時

私の足は素足

私の髪は芦の葉のようにざわざわ

私はひとりでに おいしい実のなる林檎の木ではなかったもの。

でも私は小さい紅い玉だけは ささげ持っているのよ

野の風の中で みがかれている時

私は自分の野茨のように珊瑚のように

とても大事にしているのよーー。

 


夏讃歌

しづかに天より降ってくる

夏のさやけさ うつくしさ

乳に満ちたる樹々の梢に

雪とかがやく空気のさざなみ

季節は いまや きわまりて

風に消えゆく子等の声

 

素足音なく駆けすぎる

芝生は炎のエメラルド

まぶしき花を訪れる

翅に小さい虹の環

ああ この夏のきよき光

過ぎゆくものとは おもはれず

 

野には そよげる野の花の

はてなき波の うちかへす

千々に くだけて又燃ゆる

ああ この夏のきよき光

過ぎゆくものとは思はれず


八朔

誰が新鮮で汁のほとばしる一個の八朔の味をそのまま表現できる?

のべれる?友人が産地から送ってくれた鮮らしい八朔。

味の種類や意味を伝えにくいにもかかわらず、それはすべて自分の身にとけこむような感じ。

つまり

「自分がそれを受けとって相手と同じ新しいものにならずにいられない感覚」とでも云おうか。

それが汁のほとばしる八朔、又は詩の、根本の意味であろう。


  砂糖

私が死んだあと、人々が私の作品を記憶するとは とても思えないが

「あの人は お汁粉をつくると云って お塩とお砂糖をまちがえ、

  金杓子に四五杯もお塩を入れたっけ」と笑い話にするような気がする。

そして、そのときどうして そう考えをしていたのか、

という事はまるきり消えてしまうにちがいない。


朝の通りを

朝の通りを

グラジオラスと夏菊の小さい束を買って小走りに帰っていく娘

お前は何かをつけ加えようとしているね

小さい瓶にその花を活けて、生活をたのしくしようとしているね

平凡なその店の一日を

鮮らしい色で何かつけ加えようとしているね。


幼きものの世界  a 棘

小さいサボテンの鉢を植え替えていると、

目にもとまらぬこまかいトゲが、手のあちらこちらにささった。

シクシクといらだたしい痛み。

タオルを濡らしこすって取ろうとしてもうまくいかない。

「僕がとってあげる」と幼いヒデオがすぐに自信ありげに云ってくれた。

目を寄せ近づけて、皮膚の或る個所から、私には見定めにくい微少なものを

つまみとり、そして「ほらね」という。するとその部分が楽になるのであった。

よくよく見ると房のように束になった金色の極微な針が、

扇のようにひらいてささっているのであった。

新鮮な視力と、やわらかい小さい彼の指のはたらきで、次第に私の皮膚は平静になった。

鼠に助けられている罠の中の獅子の気持ちはこうもあろうか。

こわばり皺よっている私の老いた手の上に、幼い頬をまるくふくらませ、

唇は薔薇の蕾のようにとがらせて近よる時、私は、目に見えぬ傷をなおす、

慰めの天使にさわられて居り、いつか人の世の憂さかなしさも消えていくのであった。


昔の詩

その頃は まだ時がうんとあると思っていたので

自分が必死でつくった うすっぺらな雜誌も

それほど大事にはしなかった。

若年は それほど時間の意味を思わず

時の鬼の皮肉さを知らず

いつのまにか どこかへ散逸してしまった。

どこかで うっかり めぐりあわせた時

自分自身の みずみずしさにあきれ

その頃の未完にほれぼれするのだ。


彼の段階

彼は人を段階として考え、彼の考えでの「エライヒト」にだけ尽くし、

彼の考えでの「ツマラヌヤツ」には指一本尽くそうとしない。

「エライヒト」からみたら自分がツマラヌ事には気づかない。

しかし彼の実践倫理から云えば

エライヒトは決してツマラヌ自分に尽くしてくれない筈だから、

ツマラヌ人によくした方が理屈に合うのではないか?


心にとまったもの

      a ユルリ島の馬

「馬は一言も云わぬ。

人間も馬もかわいそうだ

売ったあとは何日も みな物を云わぬ」

テレビの一齣であった。

猛々しい野馬であったユルリ島の馬は、捕えられ、なつき、

一家族として荒れ地を耕し年月を過ぎた。

そしてやがて売られれば一塊の肉となってしまう。

誰も売りたくはないが、売らねば食えぬ。

人間生活の苦に巻きこまれ、馬は一家と遠くひきさかれ車に乗っていってしまう。

野馬として あんなに抗った時の美しさが、今も眼に焼きついているのにーーー。

そして多分 私も一人の その馬にちがいないのだ。


好き嫌い(一)

私が働いて疲れて帰ってくると夫はすぐに

「おいお茶を入れてくれ」とか「風呂に火をつけてくれ」とか云う。

ブラウスもぬがぬ間にーーー。

それはこちらの云いたい事なのに、とその不合理に いつも憤慨していた。

そして一方では、怒る自分をケチだと卑しみ、解決に悩んだ。

友人の八重子に

「あなたならどうする?」とたずねると

「その男が好きなら くたびれていても すぐお茶を入れてやるし、嫌いなら してやらない」

と何のためらう事もなく云う。

「ああそうか」と私は天の声をきいたように思った。

でも私自身は げんに疲れていて、いやいややる事に変わりなく、そのようにできなかった。

つまりそれがいつも一人角力だったのだ。

お茶をいれた時、相手が

「おいしかった。ご馳走さま」と云ってくれさえしたら、、、、すべてよかった。

それが なぜうまくいかないのか。

私が たのしそうでなく、疲れを顔にだし、義務的にやる、その事が原因なのか。

私は それでいつも苦しんでいた。

「だまして下さい、言葉やさしく」それは私の本当の声であり、自分のその詩をよむと涙が流れた。

それ位 悩むなら嫌いなのだろうと云われれば、嫌いと云う理由が又わからない。

女は いつも損だ、損だ、損だ。